西宮北高校の校舎(その3:本来ないはずの部室棟)

ハルヒシリーズの北高には部室棟なるものがある.実際の西宮北高の場合私の在校時期は確かに北館のさらに北に4階建ての棟があり,その外観はハルヒの部室棟そのものであったが,内装は全く北館,本館と同じであり,アニメのそれとは全く異なるものであった.また実際のそれは部室棟なるものではなく,1階は食堂,2階から上は視聴覚教室やなんかがあったように記憶している.またその視聴覚教室というのはその頃の英語教師達にとって当時あまりにもハイテク過ぎて使いこなせなかったようなので,私の授業においてはついにその3年間使われることはなかったりしたので,この棟に出入りしたのは1階の食堂を使うときのみであったはずである.となると実際当時の文科系部活の部室はどうであったかを語るとこれが悲惨極まりないものであったのである.

当時の北高はスポーツに関してかなり力を入れていたはずであるが,その中でも唯一インターハイ常連であった山岳部がグラウンドにある体育系部室棟に入ることを許されず,北館3階のトイレと教室の間にある幅3mぐらいのスペースにベニヤ板を貼ってドアを取り付けただけの,部室というにはあまりにもひどい環境を与えられていた.もっともその中で全員でミーティングするようなことはなく,専ら倉庫として使用していたようであるが,体育系の一部がすでにそんなことになっているようでは文科系はやはり当然のごとく部室の存在自体なかったわけなのである.

我が写真部についてもその状況はあてはまり,私が部長をしている年度までは北館の4階北の端にあった地学準備室の奥に暗室があり,その都合からか地学教室が一応活動拠点として認められていた.しかし私の年度からカリキュラムの変更があったため,北高から地学の授業自体がなくなり,3年になるときに地学の教諭が学校を去ってからは地学教室の管理者が不在であるというわけの分からない理由により行く先未定のまま強制立ち退きとなった.

もちろん文芸部なるものも当時存在したが,同じく活動場所はいわゆる”部室”ではなく図書室などを使っていたようだ.というのも当時の文芸部はほとんど男子がおらず,私の友人にはそれに該当するものがいなかったため,文芸部の存在自体を認識することが年に1回の文化部の予算委員会ぐらいしかなかったので,このような推測でしかものをいうことができないのだ.谷川さんはその希少な文芸部の男子であったと言われているが,私の卒業アルバムを見る限り我々の学年とは違う男子2名を合わせて合計10数名が写真に収まっている.

北高のwebを10月現在で覗いてみたところ文芸部はちゃんと活動内容など書き込んだwebが用意されているが,写真部はそれがない.当時は同じほどの人数であったのにこの少子化の時代に当時とほぼ同数の部員を確保できていることは,谷川さんの功績によるものも大きいのではないだろうか?それとも谷川さんが在籍したということだけではなく,長門というはかなげなキャラが零細文芸部に存在していたという設定に魅力を感じて文芸部のドアを叩く新入生がいてもおかしくないだろうし,今はどのような生徒さんが文芸部に在籍しているのか,どんな動機で入部したのかなど考えるものこれまた乙なものなのである.

まあ3年になってからであったのでそんな真剣に部活にも打ち込んむ年頃でもなくなっていたため私自体には影響は少なかったように思うが,それでも地学教室の横の数学教官室に一旦身を寄せたり,結局数学教官室では試験のシーズンは試験結果の集計,演算システムが稼働していたので(当時は最先端だが,単なる表計算ワークステーション),その出力結果をちょっと首を振れば見れてしまうようなこともあり,在学生全員の成績が写真部に筒抜けになるのはよろしくないということでそこも追い出された.特にどこへ行けとも言われなかったので,暗室作業のない日は適当に示し合わせて放課後に集まってだべり続けるのがすなわち部活という状況になった.結局われわれが落ち着いたのは暗室からも距離的に近いその数学教官室の隣の生徒会室であった.

生徒会というのはそもそも弱小文化部には厳しい設定が一般的であるが,偶然同じクラスに生徒会長がおりお互いにそんなバカバカしい無駄話が性に合っていたこともあり生徒会室という本来恐れ多い部屋にも一時でも寄生することができたのである.しかしその写真部の我々3年が引退して,生徒会のメンバも代替わりした後は写真部と生徒会のつながりもそんなに強くなかったはずだし,それ以降はどうなったかということになる.しかし今になってそれを思い出そうとしても記憶の奥底からもとんと出てきやしない.結局その下の年代がどのようなジプシー生活を送ったかは定かではなく,今にして思えば我々というのはさぞかし頼りがいのない先輩たちであったことであろう.

まあ我々としては写真を撮って,現像,焼き付けができればよいだけの部活なので,部室がないこと自体は普段あまり問題にはならないのだが,実際新入生の勧誘時期になるとこれが如実に悪影響としてあらわれてくる.もし写真部に入ろうと思ってもどこで活動しているかパンフレットに明示しても常時そこに人がいるわけでもないので,なかなか一年生が入部希望に訪れにくい.自然と新入部員は写真好きな人1名とその友達みたいな感じになって,写真が本当にとりたい人の率が下がり,真剣味も薄れて行き,果てには暗室作業のない日にはジプシーのように場所を移しながらひたすら駄弁るだけの部活になってしまうわけである.

ただ,私が1年のときに2年のA先輩が兵庫県の高校生を対象としたコンクールでA新聞社賞なる賞をとったもんだからうちの学年はそれ以来写真コンクールの賞狙いで活動していたので比較的写真に没頭していられたと思う.そのせいもあって私自身部長を任されてしまったりしたわけだが,その部長が役者不足なため活動場所が途中からジプシー状態になってしまい,その状態が長々と続いたこともあり,うちの学年の下の代からはかなり情熱も下がってしまったことだろうし,当然のごとく写真部自体衰退していったのかもしれない.

ちなみに補足すると私の高校時代はそんなこんなで写真ばっかりとっていた上に理系クラスに進んだので,イロコイ沙汰にはかなり縁遠い生活を送っていた.当時写真をやるには高い機材と,カメラやフィルム,印画紙,薬液代が膨大な資金を必要としたので,写真部にいること自体が私はオタクですといっているようなものであった.もちろん当時はオタクなんて言葉はなかったが.かく言う私も小遣いの95%以上をつぎ込んでいたので日々の暮らしは貧乏そのもの.奇跡的に意中の女の子と遊びに行っても写真ばっかり撮るだけで甘い思い出作りも出来ない上,何かと”金無い”を連呼するもんだから決して長続きはしないわけである.

しかし2年の後半からは写真がらみで少し金儲けの手法も身につけて少々の自由は利くようになったが,それでも機材への投資がメインであったので渋ちんであることには違いない.従ってキョンくんのように喫茶店で全員分のお茶代を奢るなんてことは絶対にできなかったはずなのである.恐らく私がSOS団に居たら1時間といわず1.5時間前ぐらいから北口駅前に茣蓙を敷いて待ち伏せていたに違いない.

そんなに情熱を傾けた写真であるが,大学に入るやいなや興味はお酒やバイクやなんかに移っていき,所詮それらにまた可能な限りお金をつぎ込むことになり貧乏生活が身に沁みついていくのである.今思えば今私の生活に大きな影を落としているこのような性分は高校時代にすでに着々と完成形に近づいていたのだとしみじみ思うわけだ.

ここまで書いてふと気が付いたが,部室棟の話をしなければいけないところが単なる私の部活の思い出や性分の話になってしまった.ハルヒネタを期待して読み進んでこられたみなさんには非常に申し訳ないことをしたとお詫びせねばなるまい.部室棟に関して言えばとにかく上記のような部活動を強いられてきた手前,文科系の部活にも部室が個別に与えられているハルヒ世界の北高はうらやましい限りである.SOS団発足直後にその価値ある部室をやすやすと手に入れてしまうハルヒの実力たるや,力が足りないばかりに部員をジプシー予備軍にしてしまった元写真部部長からすれば尊敬して止まないわけなのである.

なお,消失の文芸部部室の中で特徴的なパソコン.文芸部に仕方なく1台だけおいてある古いパソコンという設定であり,NECのバリュースターと呼ばれる98シリーズの末期モデルが登場する.特に98シリーズからPC/ATマシンへの切り替わり時期で業務でこの類のPCを使うことが多かった私からすれば,あのバリュースター関連の描写はなかなか秀逸であると思う.電源が入ったときの音というのは小説にもコメントがあるが,あの音は将に特徴的な98シリーズ,その中でもバリュースターそのものの音ではないかと思われる.

当時のNECの98シリーズといえば,オリジナルのプラットフォームを決め込み,マザーボード,電源,キーボード,メモリなどCPU,HDDを除く全てがオリジナル規格のものであった.その電源はファンがボールベアリングを使用してあり,あの様な音がするのである.キーボードもまさにあんな甲高い音がする.マウスは当時のNEC純正は高かったので,あのようなマウスが使われることが多かったと思う.確かに社外のマウスもクリックの度にあのような安っぽいカチカチと甲高い音がしたものだ.起動画面のメモリカウントアップ表示も640KB+〜KBという独特なものであり,内臓メモリも1.6MBとか2.6MBとかいう中途半端なもので,そこに8MBや16MBの増設メモリを突っ込んでWindows95を無理やり動かしていたもんだ.長門のメッセージの感じフォントも忠実に当時のDOSプロンプトでのものを再現しており,懐かしすぎて少し目がウルウルしてしまった程だ.

キーボードについてはキョンくんはマウスをクリックしてアイコンを開けたり閉じたり,検索してみたり最後にエンターキーを押しただけだろうが,これがもう少し複雑な操作をするならば少し戸惑ったに違いないだろう.漢字変換なんてしようものならPC/AT機ではAlt+半角キーで漢字入力モードに入るところが,98シリーズだとXFERなるキーがあって,これを押さない限り漢字変換さえも出来ない.キョンくんが初めて98シリーズを触る設定にしておいて長門に漢字変換のキーを質問させたりしてみても面白かっただろうななんて想像を膨らませてしまうのである.

さてすっかり旧型パソコンの思い出に嵌ってしまったようで大きく脱線してしまったが,ここまで当時を思い出す限りでは,当時から文芸部はちゃんと文芸部らしい活動をしていたし,写真部は流浪の民状態であることをいいことに日ごろは正統な創作活動はほとんどしていなかったことを考えると,もし双方に部室があったとしてもSOS団にしてしまうのであれば文芸部ではなく写真部のほうが良かったのかもなどと思ってしまう非道な写真部OBなのである.

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