通学路(その4:甲陽園駅前〜お地蔵様の祠)

さて甲陽園駅前からはいわゆる強制ハイキングということでいよいよ登山コースさながらの様相を呈する.

駅前から北高方面に行くためにはまず駅の改札から見て正面にあるドブ川の脇にある小径を上がっていくところから高度を上げていくことになる.ここはハルヒのテレビ1期では私が通学していた頃とほぼ変わりない景色であったのが,2期が放映されるあたりの前にこの奥に駐車場が出来るのと時を同じくして道路が拡張され,奥の見通しが良くなりドブ川は暗渠化されたようでいまや景色が一変している.暗に登山道入り口のような雰囲気を醸し出していた貴重な景観が変わってしまってちょっとさびしい気もするところである.

この小径を左側に上がっていくと程なくして有名な椅子の置いてある踊り場をはさんで数十段の階段が待っている.この階段,登山コースに突入していきなりの高度稼ぎでもあり,しがない高校生にとっては根性を試されるポイントでもある.実際まだ通学に慣れていない頃はこの階段を上がりきるところで既に息が上がってしまっていたし,まだ4月というのにしっとりと汗をかいていた.一方で同じ階段を上がっている2年,3年のおにいさん,おねえさん方はすたすたと涼しい顔をして横を私以上のハイペースで上がっていく.当時踊り場に椅子は置かれていなかったが,もし当時椅子が置かれていたならばお言葉に甘えて2〜3分は座って休憩でも入れたかったところだ.

特に1年の頃は写真部ということで体育の授業がなく雨が降っていない日だけバカ正直にディバッグにカメラを詰め込んで登校していたり,現像道具や,印画紙,パネルなど買出しして来たものを学校に持ち込む係りなんぞやらされていたので,そのような荷物があった日にはなお一層憂鬱な気持ちでこの階段から延々と続く登山道と自分の写真部1年生という立場とを疎ましく思いつつ登校したものだ.なお体育のない日にカメラを持っていくのは盗難防止と体力温存の両方を考慮してのものであるので補足しておこう.

この階段を上がりきるとこれも聖地として有名な水道路踏切の踏切から徐々に高度を上げてきた2車線の市道に出る.市道に上がりきって階段のほうを振り返るとこの階段の傾斜がいかに心臓破りであったかがわかる.また微妙に曲がっているため上から奥が見通せずもうずいぶんな距離を上がってきたかのような錯覚を覚える不思議なアングルであったりするのだ.このポイントの道路の向こう側ほぼ正面に私が通学していた頃は空き地があって,フェンスで囲まれていたように記憶している.ここは70年代以前磯田公園という少し広めの公園があったそうだ.ちょうどその敷地から若干北上したところにキョンくんの登校シーンで有名なお地蔵様がおり,このお地蔵様はそれ以前はこの磯田公園の敷地内に祀られていたとのことである.なおこのお地蔵様は結構由緒正しくもあり,毎年地元の方々が集まり地蔵盆をこの磯田公園で行っていたりしたとの記録も残っているそうだ.

実は一部の聖地マニアの方々の間では,この磯田公園が将に甲陽園駅前公園ではないかとささやかれているようだ.しかし確か私が小学校の頃このあたりを自転車で散策しているときにその磯田公園と思しき公園に足を踏み入れたことがあったものの,おぼろげながら記憶している公園の内部の様子はアニメの光景からはあまりにもかけ離れていたと思うし,残念ながらその説の線はないのではないかと思っている.

なお,消失の公式ガイドブックでは甲陽幼稚園前の現在空き地になっているところが”光陽園駅前公園のモデルとなった公園の跡地”として紹介されており,Wikiにもまことしやかにそれが載っていたりするが,私の記憶の範囲ではここに公園があったことはなかった.おそらく4年に一度ぐらいのペースでここらへんを訪れているが,一度もそんな公園を見たことはないし,その4年の間隙を縫って公園が造成され更地に戻るなんて事はないだろうから,ハルヒアニメのロケハンは他の公園で行われた可能性が高い.

さて話は戻って,その磯田公園の閉鎖に伴いそこを立ち退いた地蔵がまつられた祠についてはキョンくんの登校シーンや消失の駆け下りシーンなど数度登場しているが,お地蔵様を納めるだけなのに祠の周りがコンクリートで固められている上に周辺にも何も置かれておらず,聖地めぐりであれをお地蔵様の祠であると初めて知った方はさぞ変な空間であるように感じられるのではないかと思う.ただ,磯田公園で地蔵盆を行ってきた地元の皆さんが歴史を引き継いでこのコンクリートのスペースを利用して継続しているならば,あのスペースが実は便宜上必要に応じ作られたものであることが推測できるわけだ.

当時の私も例に漏れずこの祠のコンクリート然としたたたずまいに違和感を感じていた私なのであるが,その説が正しいかどうかは別としてさまざまな考証の結果としてこの磯田公園のいきさつを知ることが出来,その結果として約30年の永きに渡り感じていた違和感に意図せず合点がいったという次第である.かくもハルヒアニメのおかげで高校生やもっと以前から感じていたさまざまな疑問やその背景的な事情がクリアになっていくのは,自らの省みに大いに役立っていたりする.その裏返しといっては何だが,そんなことも分からずに今まで齢を重ねてきた自分のアイデンティティというのが,なんとも不安定で薄っぺらいものの上に構築されていたことよと今さらながら不安になるぐらいなのである.

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