バイクのない生活

24のときに結婚した.バイク乗りは早いか遅いか結婚しないかのいずれかであると聞いたことがあるが,私は早いほうであったらしい.妻は中免を持っているが全くのペーパーである.夫婦で乗るからといって,軽量で足つき性重視の250に乗るのは釈然としない.実際都内での生活にバイクは似合わなかった.4輪の中古車を買って乗り回したが所詮4輪である.自分の琴線にはちっとも触れない.おそらく当時の華やかなりしハイパースポーツの4輪に乗って峠を攻めたり,当時出来たばっかりの夜の湾岸線で最高速を出しても感じることは所詮同じなのだ.4輪で走ることに感動を覚えないのはおそらく4輪の特性と私の資質によるもので,これは致し方ないことなのである.

4輪と2輪を比べるのはやめよう.その論点は不毛だ.未来永劫若いときにみな感じることで,結局結論は出ない.金がないからしかたなく2輪に乗り,車を買ったからといってバイクを降りた人には車がいいに決まっている.4輪と2輪の両方で走りを追求する人もいる.それぞれ考え方やバックボーンが違うのだから結論付けたとして,それを他人に話しても何の得にもならない.

そのうち2輪関係の読み物もとんと読まなくなった.道で見かけるバイクも新しいものだとメーカーさえもわからなくなってきた.ZZRやBANDITがいてもナンバーがなければ250か400か1100なのかもわからない.バイクに乗っている人を見ると自分が落伍者然としているようで後味の悪いような思いが込み上げてくる.バイクを降りた人間の多くがこんな思いをしているのか?とも思った.バイクを降りるという人にきついことをいったことがあったりしたが,過去のそんな自分を猛省した.

ある日車に乗っているとき,その脇を摺り抜けしようとしたV-MAXのおにーちゃんがハンドルを私の車のミラーに接触させた.えらく萎縮しながらそのおにーちゃんは謝っていたが,なんにも損傷はないので,窓越しに手で"大丈夫"と返してあげた.その時のおにーちゃんの萎縮具合が私にショックを与えた.V-MAXのおにーちゃんは恐らく私のことを"こちら側"人間だとは思わなかったようだ(あたりまえだ.普通に車に乗ってるやつを見たらそう思う).私の心の中ではその時バイク乗りに対してうらやましいという気持ちと,自分が2輪に乗っている"こちら側"に対してそれ以外の"あちら側"いることに違和感を感じていた.

G1を売ってバイクに乗らなくなって2年余り経つとカワサキからZEPHYR1100が出ている事がわかった.ZEPといえば400すでにが出ていて,それはGPzの後継というような位置づけで発売されたにもかかわらず最大馬力は8psも抑えられ,マフラーは集合化,かといって軽量化したかといえばそうでもない.従って低回転にトルクがなく,燃費はこれがカワサキの4発かと疑うほどに悪い印象があり,ツアラーでもなくレプリカでもなく改造ベースでもない中途半端なもの.私にすればこんなバイクが売れるようでは世も末と当時は思っていたのだが結果的に売れに売れた.(今はそうは思わない.あくまでも当時)

GPz1100空冷には400Fのころの憧れがあった.ZEP1100は400と違い,GPz1100の後継にふさわしいかも?という感じがしたのである.よってZEP1100はなぜかモーターショーで見た瞬間に引かれるものがあった.マフラーの2本だしとちょうどいい車格とスタイル.特に最大馬力信奉者ではない私にとってパワーは問題ないだろう.幸いにも国内のオーバー750解禁にあわせての発売であったが,このモデルは最大馬力は海外モデルと同じである.私は最高速を求めるタイプではないので,どんなモデルであっても海外モデルでないと駄目という事はない...ハズであったが,1点だけどうしても海外モデルがいいなと思ってしまうところがあった.タンクのKawasakiの文字.国内モデルはZEPHYRと入っている.これは歴然とした差である.心情的にはGPz1100Ver.2のような位置づけでその存在を捕らえていたので,ZEPHYRと大きく書いてあるのは許せなかったのである.まあ国内モデルを買ってもロゴだけ換えればいいやと思い.その時点で実は色々なことをあまり考えず買うつもりになっていた."こちら側"と"それ以外の世界"の境界をも考えず...

しばらくバイク雑誌に目を通し,ZEP1100の中古車に値ごろ感が出るのを待っていたのであった.おそらく2年もすれば50万で程度のいい中古が出るだろう...そう思っていた.こうして心情的にではあるが自分がバイクを降りた理由もあまり気にすることなく徐々にバイクに再びアプローチし始めたのである.

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