ヤナギからの帰還で初対面の時からは考えられないほどに美しく変貌し調子を取り戻したG1であったが,やはりホイールやチェーンを含め見た目はイマイチであった.よってチェーン掃除から始めた.チェーンはスプロケットが尖がりまくっていたのですぐ交換と言うことになろうが,チェーンそのものの見えるところはごみを落としてやるとかなりキレイにはなった.しかしホイール磨きでは苦汁をなめることになる.拭いても拭いても落ちない.やけくそになってCRCをぶっ掛けてワイヤブラシを掛けピカールを湯水のごとく使ってもまだ点々が残っている.こちらはもうやけで半日以上ホイールの後ろにごそごそやっているので腰がその形のまま固まってしまうかと思ったほど.それでも点々が少し残っているが,目立たないレベルになったのでこれでよしとした.
次に外装である.タンクやカウルにはコンパウンド入りのワックスをかけ,適当に拭き取ったため白い粉が見え隠れしている.私はこれが大嫌い.カウルの尖ったところは転倒の傷かなんかでささくれ立っているのだがそれのおかげで目立ってしょうがない.それにオイルなんかが薄く着いているところもあり,中々汚い.まず水洗いであるがこれで素直に落ちる汚れではない.アンダーカウルなぞ黒に見えたほどである.タオルにCRCを染ませて拭き込んだ.とりあえずワックスやオイルは乾拭きで落ちた.
次はワックスである.定番のシュワラスターを普段の倍以上塗り込んでいく.見る見る艶が蘇り,暗闇に青いタンクやカウルが光り出した.恍惚の瞬間である.このG1のカラーはニンジャのカラーリングの中一番好きなものであった.もちろん青いNINJAということではG3やA4のほうが新しく格好は良く見えたが,深みのあるメタリックブルーは昼夜を問わず路上に映えた.テールに流れるパーティングの具合もすべて自分好みであったのだ.
オイルについてはこいつにも400Fのときの定番のVALVOLINEを入れた.ところが問題発生.すべてのオイルを抜きドレンプラグを戻したところ,からからといつまでも回りつづける.幸いにもオイルパンではなくネジの方が馬鹿になってただけであるが,前のオーナーがぎりぎり騙して平静を保っていたところ,私が最後の砦を破ってしまったらしい.ドレンプラグを買いに高野から修学院まで歩かねばならなかった.
当時750とはいえNINJA用にある程度さまざまなカスタムパーツは売られていた.しかし私の鉄則から行くとすべて純正新品部品より高いのでNGである.解体屋さんについてはまだ当時401cc以上のバイクは稀少で,人気のあるNINJAはごっそりと在庫がなくなっていた.
しかも図らずともローン地獄に入ってしまったのでお金はない.ここは最小限の出費で維持していくしかない.そうこうするうちにオイルパンの周りからオイルがにじみ始めた.しかしそれはちょっと湿ってるかなという程度であったので,騙し騙し乗っていた.
またギア抜けも多かった.3-4速で突然ギア抜け.恐る恐る回転を合わせギアを入れるもミッションは悲鳴を上げる.以前Kawasakiには3-4速の間にニュートラルがあると言われた.もちろんそれは嘘なのだが,その時G1はそんな状態だった.
2速からニュートラルにも良く落ちた.おかげで駐輪場に入れるとき直角に低速で曲がろうとハンドルフルロックから1速でフォンとあおりを入れたつもりが加速がつかない.そのまま立ちゴケ...フロントウィンカーがその餌食になった.今から思えばクラッチオイルが少し減っていてストロークが足りなかったのでギア抜けしていただけかもしれないが.
一方いじるという点では野望はあった.900のエンジンへの乗せ換え.しかし88-90年にわたり世間は空前のNINJAブーム.トム・クルーズのせいなのかどうかは知らないがおねーちゃんが好んで乗る大型バイクの筆頭になってしまっていた.逆輸入の900は引っ張りだこ.エンジン単体なんて勿論私のG1の購入価格よりも高い.G1-G3に乗っている同輩どもが同じことを考えているために高いに違いない.
そうこうするうち卒業となった.
社会人となり曲がりなりにも都内に住むようになると,ツ−リングに行くにも延々と連なる渋滞を抜けてからさらにその先の長距離を走破することになる.ツーリング中の左手の痛みは京都の比ではない.高速に乗っても箱崎を超えるのが苦痛である.しかも加減速のない単調な走行は一瞬たりとも耐えられないのである.暇だからと昼日中に最高速チャレンジなどやろうものなら,サンデードライバーの餌食になること請け合いである.そもそも貧乏性な上,高速があまり好きではない.高速を嫌って房総方面へのツーリングなんてやってみても単調な直線がひたすら続く.かといって峠にいこうと思っても奥多摩やいろは坂はサンデードライバーのるつぼで,危なっかしい上高速を散々乗り継いだ後の御到着となる.いろいろな苦労をしてまでツーリングに出る根性がない.
それにもう一つ.関西はそうでもなかったが,首都圏に出てきて第一に思ったのが路面が悪いこと.当時まだバブルの時期で跳ね上がる土地代に釣られ建設ラッシュであったため差し枠を渡した10tダンプが積載量リミットの5倍は超えようかという土砂をつんで,"土砂等禁止車"などどいうお洒落な塗装をまとってそこらへんを走り回っていたのである.そんな車が夏場にフルブレーキでもしようものならアスファルトは弱弱しく変形し路面は20cm近く陥没,隆起するのである.当時族議員の代表のようなやつらがバブルの勢いに乗って好き放題やっていた時代であった(特に○ッチーとか浜○ーとかいわれていた奴等のせいで特に茨城と千葉の道はぼこぼこであった).
話は戻るが結局G1に対して都内の生活で実施したメンテは洗車と一回限りのオイル交換というお寒いものであった.