フェティシズムについて

新海さんは前作言の葉の庭においては脚フェチ疑惑が出たりしていました.明確にはそれをご本人は否定していなかったり,人には必ずフィティシズムがあって当然というようなこともおっしゃっていますので,今回はそのフェティシズムについてです.ちなみに正式にはフェティシズムという言葉は人体の部位やそれに付随するものに対してのことをいいますが,ここではキャラクターに付随するものということでかなり広義にとらえて語っております.ここらへん突っ込まれる前にお断りしておかなければなりますまいね.

<口噛み酒>

人類が食するものの中に多くの発酵食品があります.日本人にとっては発酵食品というのは代表的なものでいくと納豆や塩辛とかがポピュラーであり,特殊なところでは日本人の中でも決して人気が高いとは言えないくさやなんかもあります.同じように海外においてもチーズをはじめ,魚介類の発酵食品や調味料など多くが存在します.これらはその地方特有のものであったりするので,他の地域から来た人からするととても理解しがたい風習にとらえられたりします.なので外国人が納豆を初めて食するときの拒絶反応を見ると,日本人はあんなにおいしいのにと思ったりするわけです.ただ,それは単に慣れであったり嗜好性にもよるものだと思います.たとえば納豆については私が子供の頃は関西においては納豆嫌いの人が多く存在しました.今でも年配の方の中には納豆が嫌いな人はいますが,年齢が低くなるにつれそのような傾向は薄くなります.

お酒についても醸造という工程がまさに発酵をベースとした作用によるものです,そしてそれによりおいしさが変わってきます.なのでその発酵の具合がどうか,うまく発酵できているかということに関して私はある意味神がかり的な何かに感じてしまうことがあります.したがって,私の嗜好ではウィスキーもワインも樽の香りがしっかりとして,あくまでもその先にしっかりした発酵をしましたよというほうが好きだったりします.チーズも代表的なところではすごく臭いブルーチーズが好き.いかの塩辛よりももう少しパンチの利いた酒盗が好き.調味料でもナンプラーとか良いものはいろいろな料理に使ってもおいしいと思ってしまいますし,ある意味発酵食品フェチなのかもしれません.

こんな私ですから,果たして本作における口噛み酒はどんなもんなんだろうと思います.決して変態的な嗜好に基づいたものではないと断言しておいても自信はないところなのですが,少なくとも瀧くんの気持ちになれば,あのように苦境に立たされたとき三葉の口噛み酒に何かヒントがあると思うのは当然であり,新海さんもおっしゃっているようにある意味フェティシズムの観点からと自分の半分(=カタワレ)というロジックとを結びつけたのがも口噛み酒という古来の風習なのでしょう.

ちなみに口噛み酒が簡単にできるものかというと実はそうでもなかったりするようです.やはり口の中にある菌の種類や量,それに発酵条件やお米の種類,配合などの条件が合わないとできないようなので,個人でやってみようとおもったとしてもその成功確率は極めてゼロに近いそうです.まあ瀧くんはまだお酒をたしなむ年齢ではなかったでしょうから口噛み酒がおいしいかどうかなんてわからなかったでしょうし,あのような事態であれば例えまずくったって我慢して飲んだでしょうけどね.

<本作におけるフェティシズム>

口噛み酒が本作におけるフェティシズムの片鱗であるとして,他にフェティッシュな側面はないか考察してみます.まず登場人物的に一番フェチなにおいがするのはテッシーです.オカルトマニアでムーを愛読しており,無線やメカにも精通している.そして,三葉の口噛み酒への憧憬などいろんな特殊性の巣窟ともいえるのがテッシーなのだと思います.

そして,そんなテッシーを好きなサヤちんもある意味フェティッシュな側面があるからこそそんな思いを抱くようになったのかななんて思うわけです.あとサヤちんだと左目じりあたりにあるホクロですかね.ここも結構フェティッシュなポイントです.

あと,本作の重要なフェチは方言ですね.これはとっても重要なポイントです.瀧くんが三葉とその周辺の人々を好きになるうえでこの方言が大きな役割を果たしていると思います.ちなみに三葉のお父さんもよそ者のくせにお酒を飲んでいる席では方言を使ったりしています.恐らくテッシーのお父さんとの親密度を上げるために長年使い続けてきた恣意的なものなんでしょうけど,それをある意味いやらしい側面として表現しているのだと思います.

でも三葉はテッシーやサヤちんや四葉に比べると方言がそれほど強くありません.確かに”いけてる”グループの3人はほとんど方言を話さないので,三葉の年代であれば方言は簡単に抜くことができる,”バイリンガル”な状態なのかもしれません.で,そんな側面に注目してしまったがために,私のアフターストーリーの上では瀧くんが三葉に方言を使うように懇願してしまう姿なぞを想像してしまうようになっているわけです.ははは.

<新海作品における共通したフェティシズム>

今回の初めに言の葉の庭の脚フェチ疑惑から入りましたが,新海さんの作品にはほぼ共通したフェティシズムがあると思います.モチーフとかテーマとかそんな感じの言葉よりもフェティシズムとあえて言いたいぐらいにこだわっていると私は感じています.それは”距離”と”時間”に翻弄される姿だと思うのです.ほしのこえから始まり,特に男女間の出来事を描くときにはお互い”距離”が離れていたり,距離はそうでもなくってもあえない”時間”というのにこだわったシナリオになっておりそれがスパイスになっています.

本作はその両方をうまく使って二人の運命に色付けをしていると思いますし,言の葉の庭でも物語そのものは短い期間であっても,二人の背景や,その後の部分がにおうシーンがちりばめられ,特に小説版を読むとその前後に物語が続いていることがわかります.”秒速”についても距離と時間,特に 少年期から成年へと移り変わる重要な時期を距離という障害がありながらお互いが成長していくさまを表現しています.時代背景が現在であるこれらの3作においても時間というものを無理やりにでも押し込んでいるように思いますし,時代背景が未来を描いているものであっても,そこに”時間”を当然ながら描いています.人は時間の中で成長します.そして成長しながら出会いを別れを繰り返し,大人になります.本作で10代,20代を狙って作ったといわれながらも私のようなおじさん世代からも支持を得られているのは新海さんの作品がそのような人たちにとっても自省の機会になっているといってもよいのかなと思います.

ということでフェティシズムという言葉で無理やりまとめてみましたが,次回作ではどんなフェティシズムを混ぜ込んできてくれるか,今からワクワクしながら待っている私なのでした.

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