いろいろな疑問について(その1)

本作はストーリー構成が奇想天外で,テンポよく進んでいく中で転調の箇所も程よく前後関係とともに調整されている点が,作品としての秀逸さの一つでもあります.そのうち,とくに強い違和感ではありませんが,新海さんがなぜそうしたかという理由のようなことをどうしても考えてしまいます.どちらかというと理由を考えて同調したいという気持ちの方が強いかもしれません.ということで私なりにいくつか考えたなぜ?をご紹介しておこうかなと思います.

<3年のタイムラグ>

三葉と瀧くんの歳の差そのものに影響されているとも思いますが,物語の構成上いろいろ影響を及ぼすことになる3年のタイムラグについて,なぜ3年なのかについて考えることが多々ありました.小説を読んだり,何度も映画を見たりしてそれなりに私の意見をまとめてみたのでご紹介します.

私はまず第一にそれは瀧くんの記憶から彗星の記憶を消すのに不自然さがないギリギリの時間経過が必要だったからではないかと考えました.例えばもしこれが1年とかだったら瀧くんから彗星の記憶を消すのに不自然さが残らざるを得ない.要はこの筋書きを考えた人物(新海さんではなくストーリー中の)は糸守のことを人々が話題にあまり出さなくなったところで,すーっと消えるようにごく自然に瀧くんからその記憶を奪っておく必要があったのでしょう.そうでないと瀧くんが夢の中で糸守という地名を夢の中で聞いた時点で彗星とのつながりからの何か因果を感じ取ったうえで入れ替わりを演じることになります.入れ替わりが最初からそのような目的を持ったものだとわかっていたらあのようなお互い素直な気持ちで入れ替わりを楽しめなかっただろうし,糸守という土地は人への愛着が深まらなかったと思うのです.その結果が人々を救うことになり,その副次的効果として,瀧くんの年上お姉さん,黒髪ロングフェチ性癖(?)が醸成されたりしたわけです.私はある意味 前者の美談的なことより,私は3年のタイムラグから受けた瀧くんの影響のほうが気になります.いろいろそんなことを考えていると例えば奥寺先輩ってその年上属性の維持,強化のための当て馬的な役割なのかもと少しかわいそうになったりします.まあ年上属性はちょっと想像しすぎですが,瀧くんに”彗星被害の糸守”ではなく”三葉の故郷の糸守”と思っていてほしかったというのが,記憶の忘却期間として3年が必要であったということで一つ.

あとほかにも理由があるのではとも考えます.まあここまでだと単純なストーリー構成だけの話になりますが,私はそれ以外に瀧くんの記憶の薄れるスピードだけではない,忘れてはならない背景があるのではと勘ぐっております.これは新海さんが実際の災害被災者の心がどのような時間軸で変わっていくかとか,生活環境などを元通り修復していくのにかかるのを考え,この3年というのが目安と設定したのかもしれないと思うのです.

震災や津波で被災した自治体が運営する仮設住宅も3年立つと撤去されたりしますし,被災者の方や故郷をなくした方々もだいたい3年ぐらいで涙なくその姿を見れるようになるようです.実は私も阪神大震災のあと3年経った98年まで一度も帰省しませんでした.当時の私は正直テレビなどで自分の知っている風景が無残な姿に変わっているのを断片的にでも見せつけられ,実際にその姿を目の当たりにしたときに自分がどうなってしまうか怖かったのだと思います.

ですから私はそのような人々の災害の記憶からの回復や,災害に関する記憶の薄まる速さなどがこの3年というタイムラグに込められているのだと思うのです.高山ラーメンのご主人のキャラクターや言動が,この点如実に表していると思います.もうラーメン屋が通常営業しており,特に災害被害の当事者としてはでなく,糸守の絵に郷愁をだた掻き立てられて瀧くんを助けるに至ったわけです.ということで高山ラーメンのご主人はこういった災害被害者の移り変わりを象徴的に表すキーキャラクターになっていると思うのです.

<運命を決めたのは誰?>

次によく考えるのはこの筋書きって誰が決めたんでしょうねということ.まあもちろんストーリーは新海さんが考えたんですが,そうではなく新海さんはこの二人のめぐりあわせや,三葉父の感情の移り変わりなどこまごまとした部分まで含め,誰が意図的にそうしたかという設定の部分です.ここは単純に”神さまが二人を引き合わせた”なんていうとつまらないところになります.恐らくこの筋書きの目的はとにかく糸守の人たちを救うこと.かといってこのストーリーを救うことだけに絞ってしまうと単に三葉と瀧くんはこのストーリー上都合よく動く憑代の一部でしかないのかもと,少し寂しい気持ちにもなります.

例えば1200年前の悲劇の再発を避けるために1200年前から決められた運命なのであれば,もっと確実な線を選んで糸守町の人たちが住む場所を別のの場所にしてしまえばよいはずです.それが糸守町はあの場所に古くから起き,直前になって三葉,瀧くん,さやちん,てっしーや町長の動きだけで大きく運命が変わることになります.それは糸守がそこになければいけない必然があったのでしょう.恐らくいにしえから人が水の苦労の少ない湖の周りに居を構えるというような本能にも近い部分というのは,多少運命をいじれるとしてもコントロール不可能な部分であったのかも知れません.

その足りない部分を補うために瀧くんと三葉が強い意思とある程度の自由度を持って動けたんだと考えてみると,要は運命なんて所詮なくって人が意思をもってその運命を決めるものだということが言えるようになると思います.逆にそういった部分がないとこの物語は面白みがないですし,成り立たなかったんでしょうね.ですから一葉おばあちゃんも若かりし頃入れ替わりを体験していたりしているので,入れ替わりの現象は一過性のものではなく1200年間の宮水の人々が脈々と受け継ぎ,その結果多くの人たちの潜在的な思いがこのストーリーを作ったんだろうなと思います.ただ,それはアウトラインだけだったかもしれません.だから個人的な思い込みの上のお話になりますが,私は最後の最後になってそのディテールはやっぱり二葉さんがちょっとだけ茶目っ気を出しながら味付けしたように想像しています.なんせ二葉さんはこのストーリーを成就させるために若くして去らざるを得なかったわけで,三葉,四葉のことが気がかりだったでしょう.ですから三葉がその筋書きの結果多少時間がかかっても幸せになることを筋書きの中に是が非でも盛り込みたかったのではないでしょうか?

そのためにはことが済んだ後にも二人がどうしても忘れることができないような刷り込みが必要です.そこがおそらく二人の入れ替わりやその環境から受けた感情的なインパクトだったのではないかと思います.それが結果的に 二人を引き合わせることにつながったとしたら.それを見ることができるストーリーとしてこの作品が意味を成しているのだと感じます.

ちなみにアナザー小説のほうには糸守のいにしえの言い伝えで組紐で竜(彗星?)を封じ込めたというものがあったと二葉さんが言っています.この本作では組紐でつながった二人のきずなが彗星被害を食い止めたことになります.ご祭神は異なりますが,神社の階段での三葉の東京のイケメン願望(巫女のお願いなので,ある意味予言みたいなもん?)に応える形でこの二人が様々なストーリーを生み出して,長い時間を経て遠く離れた神社の階段で出会うのは必然のようにも感じます.神社というのはそういった神様をお祭りしているところではあるけども,脈々とそれまで生きてきた人々の思いが交錯する場所でもあるということになるのでしょうか.

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