カタワレ時

カタワレ時という言葉は今のところ実際日本のどこの方言にもなく,本作における創作言語ということになっています.これは新海さんが物語のコンテを作るときに,おそらく彼は誰(カワタレ)時からイメージを膨らませて糸守固有の方言として作り上げたのではないかと思います.そして,このカタワレ(片割れ)というのは,劇中一葉おばあちゃんの口から現在の”半分”という言葉に言い換えられて登場します.本作のモチーフとなったクロスロードの君はこの世界の半分というのがすなわち糸守では”カタワレ”時というキーワードに繋がってくるのでしょう.

すなわちほかの地方ではカワタレやタソカレという言葉になっている時間帯を示す言葉が,糸守だけカタワレという言葉になっている.要は糸守におけるこの時間帯はほかの地域とは異なり,何かしらの条件がそろえば”自分のカタワレにめぐり会える時間”ということで伝承されていったのだと思います.なのでユキちゃん先生は万葉言葉が変化したというようなことを言っていますが,それは半分正解で半分間違いなんでしょうかね.

あと,カタワレ時というとやっぱりクライマックスのシーンですが,そのとき ”カタワレ時だ”と二人がつぶやいた後のリアクションはなぜか決定的に違います.これをそれぞれのサイドから見ていこうと思います.

<三葉>

三葉はカタワレ時を認識したとき,おそらくまだ瀧くんの中にいたんでしょう.それが視点が変わって急に自分の体に戻った.それと自分しか知らないと思っていたカタワレ時という言葉を瀧くんが口にしたのを聞いて2重に驚いたんだと思います.そして,実際瀧くんが口を開き,慈しむように自分の名前を呼んでくれた.その前の日に出会った瀧くんには全く別の反応をされてしまったのにも関わらず.それも自分は一度死んでいるはず.そして目の前にいる瀧くんは昨日の瀧くんよりずーっと大きくなっている.もういろんなことがいっぺんに起こりすぎて,混乱しながら徐々に歓喜に満ちていくさまが,本当に三葉の苦難に報いるという意味を持っているかのようで,三葉に思わず”よかったね”と何度も言いたくなるシーンです.

<瀧くん>

一方の瀧くんは三葉に会えるとしたら元の体に戻ってから,そしてカタワレ時ぐらいしかチャンスがないと思っていたんでしょう.なぜかというと,口噛み酒の効力以外で最後に糸守にいたのはカタワレ時を初めて認識した瞬間.そしてそれには特別な意味があることを潜在的に感じていたんでしょう.そして思った通り入れ替わりが解け,ようやく念願かなって三葉に会うことができた.瀧くんはこのような出会いを確信していたんだと思います. なので三葉の混乱ぶりに対照的なあの落ち着きよう.そしてあの優しい”三葉”という呼びかけにつながるのです.

で,普通の映画だったらここで抱き合ったり,キスしたりみたいなことになるはずなのですが,二人はそんな風にはなりません.ひたすら自分たちが今までできなかった他愛もない会話をひたすら楽しみます.本来好きという気持ちで成り立つ会話というのは多種多様です.喜怒哀楽のすべてが含まれているがゆえに愛情も深まるのだと思います.それを十分理解しているがゆえに二人はようやく可能になった会話を楽しむということをとにかく時間の許す限り堪能したかったのだと思います.

だから口噛み酒や,組紐,3年前のことなど言葉にそれまでできなかったことを時間を惜しみながら詰め込み,さらに町を救う手立ての相談をして,最後にあのペンを持ち出すシーンとなるのです.実は私はあのシーンは単に名前を書いたのではなく,瀧くんが三葉の想いを知って,それに応えた愛の告白シーンだと思っています.

瀧くんは三葉がわざわざ東京に会いに来たことを知っていました.それに,なぜ会いに来たかも自転車をこいでいる間など,三葉の記憶を感じながら徐々に理解していったのだと思います.それほどまでに自分が想われていることをあえて理解しながら,それでもカタワレ時の間中会話を楽しみ,最後の最後で肝心の愛の告白をしたのだと思うのです.

そして最終的にはその機転が三葉の生きなければという意思をより強くし,朦朧とする意識の中でも町役場に三葉を到達させる原動力となったのだということで,あのシーンを単に名前を書くシーンではなく愛を告白したシーンとして,より重いものとしてとらえてしまっていたりするのです.

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