アフター小説の第三弾です。本編は前回と同じように出会いの数か月後ですが、回顧シーンは彗星被害直後やその後しばらくぐらいまでさかのぼります。ゆっくり二人が記憶を紡いで取り戻すような感じが出せればと思いました。前提などは第一弾と同じです。アナザー小説未読の方はわからん内容多いかもです。
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第一章 −マイケル−
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「瀧くん、瀧くん。 瀧くんってあんまり帽子とかかぶらんの?」
私の唐突な質問に瀧くんが複雑な顔をして”あんまり。”と答える。
今日は瀧くんと一緒にあまり目的も決めず新宿をぶらぶらしている。瀧くんはそれなりにコースを考えてくれてはいるけど、その効果は期待薄だ。それよりもやっぱり瀧くんと一緒にいられることのほうが私にとって絶大だから。なのでコースはどうでもいい。他に贅沢を言わせてもらえば、おいしいものは食べたいかな?という程度。
そんなことを考えているうち、駅ビルの専門店街の帽子屋さんの店頭に白くてしゃれたデザインの中折れ帽を見つけた。女性用にまざって紳士ものも置いているのか、それとも女性がかぶってもいけるという名目なのか、まあ気になるけど多少強引に瀧くんの腕をとってその女性用雑貨のお店の中に入っていく。
最近はミキさんと会うことが多くなって、いろいろオシャレのレクチャーを受けている。それなりに自分にも投資をして、瀧くんに気に入られるようにたゆまぬ努力をしているつもりだ。なかなか褒めてくれないけど。
一方の瀧くんは全然進歩が見られない。いつもジーパンかチノパンにTシャツ。上にジャケットかよくてカーディガン止まり。まるで高校生がデート用に少し背伸びしているかのような領域を出ない。そういえばスーツもあんまり似合わないし、何がこのヒト似合うんかな?といつも陰で頭を悩ましていたところだ。だから帽子がアクセントになるかも?と思いついたのだ。
お目当ての帽子を瀧くんの頭に少し背伸びするようにしてかぶせる。少し瀧くんは照れた様なしぐさで
「あんまり帽子とかかぶったことないから…」といいながら帽子を少し目深にかぶり直した。
あれ?想像よりずっとかっこいいかも。心の中ではデレまくりな私。顔からそれが漏れ出さないように気を付けながら、それでも欲望は絶えない。後ろ姿も見てみたい私は
「ちょっと瀧くんクルッて回ってみて。後生やから。」
と、方言萌え傾向のある瀧くんに工夫しつつお願いしてみた。でも少し気を遣いすぎて方言を通り越してお年寄り言葉になってしまったかな?
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昨夜三葉と会うのに毎回無計画ではだめだと思い、新宿の駅からほど近い専門店街に少し有名なスイーツの店があるという調べをつけて、今日はあまり不自然な感じにならないよう三葉とブラブラしながらその店があるフロアまで上がってきた。三葉はエスカレーターの裏側にそのお店があったのにはまだ気づいていないようだ。一応フロアを一周してからそのお店に入ろうと思っていたのだが、その直前思わぬところで不意に三葉が立ち止まった。
中折れ帽をかぶってターンを決めろという。人目もある中で普段だったら絶対に断るシチュエーションではあったものの、三葉のほうを見てみると、上目遣いに少し顔を赤らめながらも花の咲いたような笑顔で俺の顔を覗き込んでいる。小さな声で「わぁ〜」とか「きゃ〜」とか断続的に発しながら、おねだりの目をしている。”かっ かわいいかも”
まあここはひとまず精いっぱいサービスしとくかな?
「じゃあ…」
と本当だったらゆっくりと回ればよかったのだが、恥ずかしいのもあってジャケットの裾が少し跳ね上がるようなスピードで帽子の前半分に指をかけながら往年のマイケルバリに片足を軸に素早く回って見せた。
三葉の嬌声がさらにボリュームアップするものと思い、少しドヤ顔で目を合わせた。なぜか三葉は予想とは裏腹に何か神妙な顔をしている。俺は拍子抜けして、心の中で”人が恥ずかしい思いしてやってんのに、何なのそのリアクション?”と突っ込んでみた。あれ、なんか変だ。
「三葉…、ごめん、なんで泣いてンの?」
俺が今なんか泣かすようなことしたっけ?とまず考えたが心当たりはない。三葉はまるで俺の声も聞こえていないようで放心状態のまんまだ。人目もあるので三葉の手を取り、帽子を売り場のスタンドに戻してとりあえず店を出た。そしてまだあまりお客の入っていない例のスイーツカフェに転がり込んだ。
まるでレディーファーストの見本のように無意識状態に近い三葉を席にエスコートし椅子を引き座らせた。対面して座った時点では帽子の店とほぼ変わらないやや呆然とした表情だったものの、一番初めの見開きを開けてメニューを渡したとたんようやく我に返ってくれた。三葉にとってスイーツのメニューには覚醒効果があるようだ。
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その発端は瀧くんが帽子を深くかぶり、ターンを1回しただけのことだった。
瀧くんのターンはとても素早く、それに合わせ私の顔に風圧がかかるほどの勢いだった。その風を伴って私の目に飛び込んできた光景が私の記憶の奥にあった何かと反応したような気がした。その理由を一心に考えていたら、帽子屋さんではなく、スイーツカフェの窓際の席で意識が戻った。私は分厚い表紙を持つメニューを開いていて、目の前のまぶしいばかりのスイーツの写真が私を引き戻してくれたような感じだ。
私は思い出す。あれはもう9年前になる。
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被災して隣町の高校に編入したときのこと。その高校も急きょクラスを増やすことができず、元々あった数クラスに元の糸守高校の2クラス分いた生徒が均等に割り振られた。
当初の私の不満はというと、糸守高校の制服のまんまというのに少しひっかかった。確かに神社もうちも無くなってしまって、お金に余裕がないのはわかっていたんだけど、唯一私に残った服というのが、この夏服+ベストの構成なのだ。しかも彗星の日に酷く転んでところどころ破れたりほつれてしまったのをシャツ以外は繕ってなんとか使えるようにしていた。
そういえば転んだおかげで顔や手足いろいろなところをすりむいたり打撲したりしていたのでシャツも結構血だらけになっていた。なので私は彗星の次の朝、負傷者扱いされて病院に連れていかれたのだ。だから彗星被害の負傷者数は104名ではなく正しくは103名ということになる。
けれど病院で実は彗星で怪我したんじゃなくって、その前に転びましたとはとても恥ずかしくて言えなかったのと、手のひらにマッキーみたいなのであまり人には見せられない文字が書かれていて、左手を握ったままでいたらお医者さんや看護師さんに手のひらもケガしているのかとしつこく聞かれたっけ。
なんであんな恥ずかしい文字が書いてあったのか全然思い出せないけど、あの日からしばらく、あれを見るたびすごく元気が出た。生きていてよかったというのと、誰かが私のことを待っていてくれる証のような気がした。見るたびなぜか涙が出た。あの文字はしばらく消えずに残っていたけど、消えてしまってからも何かにつけ手のひらを見る癖がついてしまった。
そしてあの文字を書いてくれた人にいつか会ってお礼を言いたいと思った。
シャツはダメになってしまったので新調し、ベストとスカートはとにかく自分で繕った。なんか最近ほかの何かを繕ったような記憶もあって、無性にカラフルな色の糸を使ってかわいいデザインに仕上げたくなった。ハリネズミくんを入れたくってしょうがなかった。でも所詮制服だ。だから何の工夫もなく下地と同じ色の糸を使うしかなかった。
ということで人よりボロボロの制服なのが憂鬱な上に、”冬服になったら上着だけ違う高校の服になるんかな〜。それってどうよ?”とか思いながら転校することになったのだ。
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その初日。クラス担任は体育教師のおじさんだった、
”あ〜あ、ユキちゃん先生のほうがよかったのに。”朝のHRで糸守高校の生徒のみならずクラス全体で自己紹介が始まろうとしていたとき、その担任が唐突に余計なことを言った。
「名前以外に、自分の得意なことを言うように。」私は本当にその教師を呪った。
”私の得意なことってなんだっけ?”私より先に順番が回ってきたテッシーは無線だのオーディオ、工事の手伝いぐらいはできるとか言ってた。周りは少し引いていたけど(特に女子)、確かにそうだ。得意といえるレベルまでなのかどうかわからないけど、人に比べたらテッシーはそういったアピールができる。実はすごいポテンシャルの持ち主なんだと感心する。
”彗星んときもいろいろやってくれたし、意外に頼りになるんやに。”サヤちんは別のクラスになっちゃったけど、あ、あった。放送部。いいな〜、彗星の時もサヤちんの放送すごくよかったもんな〜。町役場からのお姉さんの放送そのまんまやったもんな。
あとで3人一緒にしこたま怒られたけど。少しあの日を思い出していたものの、さて、困った。私の場合、組紐が作れるとか着物の着付けが自分でできるとか、うら若き高校生の自己紹介では絶対マイナスポイント。奉納舞?いや、そのほうがむしろマイナス傾向強いし、話題の先に口噛み酒の話題が出てきたら社会的に終わってしまう。あと1年とちょっとしか通わないとはいえ、いくらなんでもスタートで傷をつけたくない。
”あ〜マジで何にもないわ〜。”ということで無情にも私の順番が回ってきた。ここは度胸が一番。涼しい顔で乗り切るのだ!
「糸守高校から来ました、宮水三葉です。得意なものは特にありません。」
と手短に言い放ち、早々に着席しようとしたところで、拍手が始まるよりも前に糸守高校で隣のクラスだった子が突然口を開いた。「バスケットとマイケル!」
心の中で”はぁ?なにそれ。ジョーダン?”となんともシャレにもならない突っ込みをしながらその子のほうをギロッと見る。すかさず言葉足らずを補足してきた。
「みっさんは3ポイントシュート連発と、あとマイケルも踊れちゃいま〜す!」
まるで自分のことのように自慢げに言い放った。なぜかその子の発言に対し拍手が起きてしまった。私は唖然としてそれを傍観している。全く身に覚えのないこととあまりの唐突さに正直冷めきった眼で”記憶にございません”と言いたいところだったが、言った本人は特に悪意のある顔ではなかったから、”も〜、やめてよ〜っ”と大人の対応をしてその場をしのいだ。
そんなことがあってその後のHRの間中もやもやしていたが、休み時間になってその子がニコニコしながら
「いや〜、みっさんとおんなじクラスになれてうれしいわ〜。」
とやってきた。サヤちんと別クラスになってしまったので、中学からの知り合いが一緒のクラスというのはうれしいにはうれしいのだけれど、さっきの私にとって意味不明な裏切り行為はなんなのか、それに私のことみっさんって呼ぶのこの子だけだったし。それが拡散されていくのも少し気が進まない。
「そおやね。」
ちょっと不機嫌そうにしてみた。空気を読んだのか、「いやさ〜、やっぱもっかい見たいんやさ〜、マイケル。」
と、さっきの弁解のつもりなのかさらに理不尽なことを言ってきた。確かに彗星の前の2週間ぐらい彼女とその友達に通りがかりに声をそろえて”ビリー・ジーン!”と言われた記憶がある。
当時は新手のいじめかと思ったが、どうも違うようでその真意はビリー・ジーンを踊ってほしいとのことだった。そしてその日のうちに気づいたのだが、”私が掃除の時間にマイケルを踊っていた”との噂が高校全体に蔓延していた。何分小さい高校だったので、噂がいきわたるのにそう多くの時間は要しない。でも私にそんな記憶もないし能力もない。しばらく私はその火消しに手を焼いたが、その一方でその件について誰かに強くクレームを入れたような気がするんだけど、思い出せない。
「きっと誰か違う人と間違えたんやさ。私が踊れるわけないにん。」
と、軽くいなしたのになおさら食いついてきた。おもむろにスマフォを取り出し、少し下を向いて何かで検索していたと思ったら、いきなりマイケルのユーチューブ画面を見せてきた。「これやさ、みっさん踊っとったの。こないだ調べたらビリー・ジーンやなかったんやねぇ。」
そんなん知ってるわけないでしょと思いながらスマフォを覗き込むと、マイケルが前奏にあわせて指パッチンや素早くターンしたり、ポーズを決めたりしている。本物は見たことなかったけど、この曲は途中でマイケルが直立したまんま前に傾いていくやつだ。モノマネ芸人さんかなんかがやっていたのを見たことがある。その動画のマイケルはその芸人さんなんかよりずっとキレがあって見事な”舞”だった。
「みっさんもこんな感じやったよ。すっごいキレやった。やっぱりさあ、巫女さんやっとると踊りうまくなるもんなんかね〜。」
と、今教室の中で一番口にしてほしくない単語まで飛び出した。全然踊りの質も毛色も違うし、もう神社もないんだから巫女扱いはもうたくさんだ。「ちょ、ちょちょっと待って。外で話しよっ。」
”巫女”という言葉に反応した新たなクラスメイトの好奇の視線を感じつつ、彼女の手を引っ張り教室を後にした。
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あのままではあることないこと暴露されてしまいそうなので、階段の踊り場で彼女に聞き込みをすることにした。
彼女が一切の疑いなく私が踊っていたと断言しているのには、少し心当たりがあった。サヤちんとテッシーによると彗星の前1か月ぐらい、私は何度か狐憑きのような状態になっていたそうだ。その狐憑きの私は彗星の件を予言して、サヤちんとテッシーやお父さんを巻き込んでひと悶着やったようだ。結果的にはよかったのだが、当の私はもともとそんなことできる度胸もなかったし、その狐憑きの私がいたからこそ今の私が生きているというのがわかる。その狐憑きの時の目印を確認すれば、このマイケル事案は狐憑きが原因ということが分かる。だから、
「そのときの私の髪型ってどうやった?」「いや、カッコよかったに。」
私は意表を突いた上に的を得ない答えに絶句する。
「いや、カッコやなくってぇ、組紐使ってまとめてた?それともポニーテール?」「あぁ〜、ポニーテールっていうか、佐々木小次郎みたいな?」
”ちょっとぉ。私だって乙女なんだから佐々木小次郎ってヒドッ!”と言いたかったところだが、それは明らかに狐憑きの私だ。”ということは…”とちょっと思案していたら、「それはそうと、何で髪切ったんやさ?マイケルとかバスケで邪魔やったん?それとも失恋とか?」
矢継ぎ早に聞いてくる。そのダメ押しの一言が私を即座に返答させた。
「失恋やないわぁ!」そうだ、私は失恋などしていない。あの手のひらの文字。明らかに私は誰かにかなり重い好意を抱かれているはず。誰かはわからないけど。そして私もまんざらではないはず。だから断じて失恋などはしていないはず。なんか変な回想をしながらもやもやっとしていると、
「そう、失恋やなくってよかった。そっちの方が踊りやすそうやし。」
と優しい笑顔で彼女が言った。まだ何か勘違いしているようだけど、笑顔で教室に戻る彼女を見送って私も少し笑顔になった。相変わらず別に彼女は私に対して何の悪気もない。むしろこの被災して間もないつらい時期に私の目の前でニコニコして、それ以前の思い出話をしてくれる。とってもいい友達だ。”それにしても何で髪切ったんだっけ?”
どうも髪を切ったこと自体、自分としても大失策だったような気がする。その理由も全然わからないが、とにかくおばあちゃんに切ってもらったざんぎりボブカットの私は今や小学生のような風体にも見える。四葉が髪をおろしてしまうとあっちの方がお姉さんに見えてしまうぐらいだ。
だから私はしばらくは髪を伸ばすことに決めた。誰か私が立派な黒髪ロングになったことを心底歓迎してくれる人が現れるまで。
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それからしばらく、こういったトラブルを回避するため狐憑きのときの私についての情報を少し集めてみた。何ごとも”傾向と対策”が必要なのだ。
すると結構サヤちんやテッシー以外の前でもほうぼうではちゃめちゃなことをやってしまっていることがわかった。糸守高校の同学年の間で最も認知度が高かったバスケットについては3ポイントシュートだけだったら少しうれしかったのだろうけど、やっぱり女子としてその時つけるべきものをつけていなかったということのほうが印象的だったようだ。女子からこのバスケットネタの話を聞いたときは大概その話の最後に
”あんときの男子はホントすごかったよ”
ということばで締めくくられていた。もうこの話は永久に封印することにしよう。ほかには、
・会話やしぐさにキレがあって、男子と話が合いそうだったのにそっけない
・体育の授業ですこぶる元気だけど、なぜか隠れて着替えてくる
・下着も含め服装に無頓着で朝胸をもんでいる
・古典の授業は先生に当てられたときに異様なほど顔が赤い
・四葉に気持ち悪いほどやさしい
・イタリア料理みたいなのが得意とか、ほぼランダムな破天荒ぶりで、絶対そんなのは私じゃないといえるものばかりだった。ほぼ別の人格に代わっていたと断言していいと思う。となるとその別人格ってどんなんだったんだろう。テッシーやサヤちん、四葉やおばあちゃんまで周りの人たちはそれをさぞ楽しそうに話すのに、当の私がそのときの私を知らないのはとっても損した気分になる。お父さんだけは私の別人格の話をする度ばつが悪そうなのが気になるけど。
みんなばっかり楽しませているのは悔しいので、私はひとまずそのときの人格を演じてみることにした。かといっていきなり男子に対してなれなれしくするとか、服装を乱れさせるとか朝寝床で変なことをするのは無理で無意味なので、まず四葉にやさしくしてみた。これは気持ち悪がられてあまりメリットを感じられなかった。
一緒に学校を移ってきたユキちゃん先生に対して古典の授業中熱い視線を送ったりしてみたけど、何も変わらなかった。確かにすっごくきれいなユキちゃん先生には日ごろから見とれていたい気もするけど、ユキちゃん先生は私たちとそう歳の違わない年下のカレシがいるって噂だし、私のまなざし程度ではビクともしない。
なんとか避難所の体育館から仮設住宅に移れたところでようやく台所が使えるようになったので、イタリア料理とかその別人格が出した料理にもチャレンジしてみた。その結果、苦労したわりにどうも四葉もおばあちゃんも、久しぶりに同居し始めたお父さんにまで評判がイマイチ。慣れないことはやるもんではないと反省した。四葉もおばあちゃんも”前んときは美味しかったのになぁ〜。”としみじみ言っていたので、かえって私のその別人格に対する劣等感がさらに強まってしまった。
こうなると多分私の中にいた別人格はスーパーマンみたいなもんだったのかもしれない。別人格はなんだか光り輝いているのに対し、今の私はどちらかというとみじめだ。これではあまりに自分がかわいそうだ。
せめてこれだけでもということで、クラスでマイケルを暴露した彼女が見せてくれた動画を見ながらマイケルの踊りを隠れて練習してみることにした。姿見の前でやってみたけど、そもそも指パッチンがなかなか鳴らなかった。それをクリアできた後でも、今度はシャープな動きを決めるのはむつかしい。特にターンを決めるところでどうしてもよろけてしまう。
ちょっと疲れたので少し休憩して姿見の中の自分を見つめる。この私そのものがあの子たちの前で綺麗にターンを決められたというのは間違いではないだろう。そしてその不可能を可能にしたのは…。
彗星の前に突如現れ、彗星のあとは全く現れなくなった別人格の私。おそらく、多分だけど私たちを救ってくれたのはその別人格の誰か。何もわかっていないのに、これほどまでに君に恋い焦がれてしまう。
”もう会えないのかな…?”
ふと手のひらに目を落とす。あの日書かれていた文字を思い出す。ふと涙があふれた。もう少しでいいから、あと少しでいいから。
9年前のあの日。あれが誰かを探し始めたきっかけだった。
そして瀧くんのその鮮やかなターンを見て”その誰かが今目の前にいる。”
そう確信した。
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スイーツショップでメニューを渡されたとたん覚醒し、まるで本能のままにメニューから一番見栄えのするパンケーキを選びオーダーを入れて、ようやく三葉は俺に気付いたように目を合わせてくれた。いや、気づいたというより気持ちの整理をつけるまであえて俺の目を見ないようにしていたように感じた。
そして何か思いつめた表情で、意識喪失の理由を俺に説明しようとする。
「瀧くんがクルってしてくれたとき。 私、あれを永いこと自分の目で確かめたかったんやよ。」
唐突すぎて俺はきょとんとしてしまう。日本語としても難解だ。俺の表情を見て三葉も少し動揺する。
「理由は、なんか…。わからん…のっ。ごめんね、瀧くん…」
なんだか、恥ずかしがっているのか少し顔が赤い。理由はわからないと言っているが、恐らくわかっていて言えないんじゃないかと思った。だってこれは何か確信した顔だ。俺は何と言っていいかわからず三葉の目を見つめる。
しばらくして、何か手がかりを思いついたように,俺たちが出会ってすぐに三葉に見せたあるものについて触れる。
「瀧くんの糸守の絵って、ほとんど私の通学路の風景なんよ。私の目を通して見た風景と同じ。あれは私しか知らない風景。」
三葉の言葉に何か記憶をくすぐられる感じがした。そうだ、あの風景はディテールは写真を参考にしたところはあるけど、構図と糸守湖、建物はすべて俺の記憶をたどって描いた。糸守に行く前の俺がその記憶を持っていたとすれば、誰かの記憶や視覚を通じていたのか?可能性のないことを推測しているのはわかっているが、そこを肯定するだけですべての線がつながる。
いや、1点だけつながらない。俺が絵を描いたのは6年前だ。すでにその時糸守は消失していた。3年のずれは三葉の視覚を覗き見ることができたとしても飛び越すことのできない壁だ。だから俺は信じかけたことを否定せざるを得なかった。
「瀧くん、何か… 覚えてない?」
俺の表情を察してか、三葉が切実な顔で尋ねる。今俺が答えるべき言葉を探す。確信を持てないことは言うべきではないと心の中で何かが俺を引き留める。だから言えることだけを三葉に伝えることにした。
「絵を描いたのは、6年前。理由は俺の記憶にあったものを残したかったから。でも、なんで記憶の中にそれがあったのかわからない。」
三葉は黙って聞いている。不安そうに俺の顔を凝視している。さらに言葉を選んで正確に伝えないといけない。
「あの前、俺は誰かの夢をよく見ていた気がする。それがぱったりとなくなった後、その記憶を残したかったのかもしれない。だから糸守に行ったんだ。」
三葉は少し目を見張っている。俺はありえない可能性には触れないように事実だけを話す。
「奥寺センパイと司と行ったのに俺だけ1日帰るのが遅かった。なぜか朝外輪山の頂上で一晩過ごしたんだ。あれ以来俺は誰かを…」
あの一晩の記憶が俺にはない。ただ何か達成感と喪失感の両方が残っていた。その喪失感は三葉に出会うまで続いたのだ。それを思い出しながら最近分かったことを、言わなければいけないことを無意識に手のひらを見ながら言葉にする。
「いや…、三葉を探していた気がする。」
言葉にしている瞬間は恥ずかしくて三葉の顔を見れなかったが、数秒の後ようやく目を合わせることができた。なぜか三葉は満面の笑みのまま少し涙ぐみ、すべてわかったような顔をしている。
そして俺の予想していなかった言葉を、あたかも以前から準備していたかのように言った。
「ありが…とう」
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第一章 了